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前回までお話は↑
テキスポ内にあります。
***
朽ちた場所の匂いだ。埃と壁と、湿った石の匂い。やけに金物くさい匂いも
する。
「起きなさい、クレハ」
自分の耳をだれかがくすぐる感触に、クレハは石の上で寝返りを打つ。
「風邪は引かないだろうけれど、汚れるぞ」
クレハの耳をくすぐっていた女は、クレハの髪の毛をつかんで引っ張った。
「い、痛いいたいいたい!」
この島で目を覚ましてからというもの、痛みからまったく遠ざかっていたク
レハは、たまらず悲鳴をあげて目を覚ます。
「それは痛いだろうさ。お前の場合は、生きてるんだから」
クレハは涙でにじんだ視界の中、自分に狼藉を働いた者の見上げた。
「……誰?」
こんな乱暴なことをする者が、指輪島にいるなど信じられないことだった。
自然さえもが、自分たちに優しかったというのに。
「クレハ、お前は何をしているんだ」
小さな、少女としか呼びようのない女性がクレハを見下ろしていた。口に何
か木の枝をくわえているのが、何とも奇妙な感じだ。
「お前の目の前に立っているのは、鳩だ」
少女は口に木の枝をくわえたまま喋る。両手をひらひらと動かしているのは
鳩の羽ばたきをまねしたものだろうか。
「どうした? お前の場合は喋れないことはないだろう」
「わたしは……」
「落ちてきた。天丼――天井が崩れたのかと思った」
鳩は底意地の悪い笑みを浮かべた。
「やはりここに来てしまったな、お前は」
鳩は片手をクレハの方へと伸ばした。クレハは反射的に半身を起こしたまま
後ずさる。その姿を見て鳩は、大げさにため息をついて見せた。
「お前の目の前に立っている鳩はそんな乱暴なことはしない」
鳩という名の少女は自分がついさっきクレハの髪をつかんで思い切り引っ張
ったことを忘れてしまったかのようだ。
クレハは後ずさりながらも、周囲に視線を走らせる。逃げ道を探すためだ。
――逃げ道を探すため?
「ここは指輪島だ。住人はなんの愁いもなく生きていくことのできる場所。な
ぜ逃げる?」
鳩は中腰になって手を伸ばしたまま、クレハににじり寄る。
「う……う」
クレハの喉の奥に苦いものがこみ上げてくる。彼女はこの感じをよく知って
いる。よく知っていた。
「ホド、クレハを捕まえてくれ。話にならない」
鳩は不快そうに唇を曲げると、クレハの背後に向けて言葉を投げた。背後か
ら抱きかかえられるようにして、クレハは自分の意志とは無関係に立ち上がら
された。
大きくてごつごつした手のひらの感触を腹に感じて、クレハはこらえること
ができずに透明な胃液を吐き出した。
「あぁぁ……ぁ」
再びうずくまったクレハを見て、鳩は腕組みをして首を傾げてみせる。
「まったく、話が進まないな、ホド」
ぼろ布を適当に縫い合わせたような服を着た大男は無言で頷いた。
***
- 2009/07/14(火) 23:27:02|
- 日記|
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