http://texpo.jp/texpo_book/toc/1129
前回までのはテキスポ内にあります。
白い街。
目に刺さるような眩しい白ではなく、陽や風に何十年、何百年と晒されたあ
せた白。
石畳も、わずかな例外を除いて平屋の建物もすべて同じ材質で作られてい
る。石畳は、人の足や、馬車の轍の形にすり減っている。
人影は、クレハ以外にはない。それでもクレハは、さびしさを感じることは
ない。街は確かに生きているから。
街を飛び交う売り子の声や、駆け回り遊ぶ子供の声。人々の生活そのもので
ある様々な声が心地よくクレハの耳朶をくすぐる。
しかし、クレハの目に白い街の住人の姿は見えない。
クレハがじっと見ている間は、街は膠で固められたようにじっと動かない。
風さえも遠慮しているかのように静かに凪いでいる。
クレハが何かの気配を感じて振り返ると、さっきまで閉じていたはずの窓が
開け放たれていたり、店の陳列棚に焼きたてのパンが並べられていたりする。
クレハにとって、街に一人でやってくるのは初めての経験だ。危険はないこ
とはわかっているが、何もないところから突然ものが現れるように見えるこの
街に一人でいると、心細くなってくる。
少しずつ自分もこの世界での形を失って、二度と館に戻れないのではない
か。
そんな恐怖がじわじわと広がっていく。
建物の壁や道に敷き詰められているのは石灰質の岩だろう。あまり雨の降ら
ない指輪島でもきれいな純白が保たれているのは見えざる世界の住人達(た
ち)が手入れをしているからだろうか。
クレハはナチュラルさんが作ってくれた麻布製の巾着(きんちゃく)からき
れいに磨き上げた貝殻をとりだした。
これはいわば少女達(たち)の貨幣だ。島の外縁部にある海岸で拾ってきた
貝殻を加工したものだ。島の中心にある巨大な湖の水に浸しながら磨くと、オ
パールを思わせる美しい輝きを放つようになるのだ。
少女達(たち)は、それをいわば貨幣のような形で使って白い街の見えざる
住人達(たち)から品物を買っている。
その品物は、たとえばパンであったり木彫りの髪飾りだったり、新しい服だ
ったりした。それぞれ少女達(たち)は自分の思うふさわしい対価を置いて、
無人のように見える店から品物を取る。
いままでそのやり方で問題が起きたことがない。
「わたし達(たち)は彼らに見えているのかな?」
クレハは呟きながらお弁当代わりに持ってきたトマトにかじりついた。
菜園で育てているトマトには、いくつか種類があるらしい。クレハが街に来
る途中に菜園で適当にもいできたトマトは、先日ナチュラルさんと一緒にもい
だものより大振りなものだ。
「うーん!」
口の中いっぱいに酸味の強い果汁が広がる。ナチュラルさんと一緒にもいだ
トマトも美味だったが、これはまた違った旨さがある。
日差しのせいで少しばかり暖まってしまったが、それはそれでトマトスープ
のようなおいしさがある。
気の向くままに歩いて行くと、街の至る所に井戸や噴水があることに気がつ
く。
幸運な、あるいは幸福な街だ。
クレハは館にある書斎の本で、水が原因で起こった戦争のことを読んだ。
この指輪島は四方を海に囲まれている。中央に巨大な湖を抱いているとはい
え、海水の塩に侵されない真水が、島のあちこちで採取できるのは奇跡と呼ん
でもいいことなのではないだろうか。
見えざる住人達(たち)がどのように暮らしているのは、それこそ想像する
しかないがきっと争いごととは無縁のはずだ。
クレハはちょうど日陰になっている噴水の縁に腰掛ける。ふと片手に持った
トマトのへたをどうしようかと持てあましてしまう。トマトのへたを投げ捨て
るには、この街は白すぎる。
街には白以外にも、たとえばほどよく焼けたパンの小麦色や、どうやって染
めたのか想像もつかないほど色鮮やかな布などの色に満ちている。しかし、そ
れらはまるで芸術家が細心の注意を払って配置したかのように調和がとれてい
る。
そんな中、緑と赤のトマトのへたを置いてみてもまるでそれだけで白い街全
体が壊れてしまいそうだ。
クレハ自分の想像に身震いしながらあたりを見回す。
彼女の視線に、真っ白な綿の塊が目に入った。
「うさぎ……?」
クレハの予想通りに、それは一羽の真っ白なウサギだった。耳の先まで真っ
白で、白くない部分と言えばルビーを思わせる小さな瞳だけだ。
「君、これ食べる?」
クレハは指輪島にウサギがいるなどと想像したこともなかった。いるとして
も、町の見えざる住人達(たち)を同じように、自分たちに見えないに決まっ
ていると思い込んでいたのだ。
クレハが指輪島にたどり着いて数日。はっきりと形をとって生きているのは
自分を含めた足輪の少女達(たち)、それから空高くどこかへと旅をしていく
渡り鳥だけだった。
白ウサギはクレハにおびえた様子もなく近寄ってくると、小さな鼻をひくつ
かせてトマトのヘタの匂いをかいだ。近くで見てみると、ウサギの鼻の先はか
すかに桃色に色づいているのがわかる。
ひとしきりヘタの匂いをかいだウサギは、急にトマトとクレハから興味をな
くしたように路地の奥へと向かった。
「やっぱり興味ないか……」
そのままウサギを見送ろうと立っていたクレハは、まるでウサギが自分を待
っているかのように少し放れたところでこちらを振り返ってクレハを見上げ
る。
白い石畳の上で、真っ白なウサギが自分を見つめてじっとかがみ込んでいる
という風景は何となくクレハを落ち着かない気分にさせる。
好奇心ではなく、名付けがたい焦燥感にもにた感情に背中を押されるように
してクレハはウサギに近づいていった。
クレハが近づくたび、ウサギは地面を飛び跳ねる。
ウサギとクレハの奇妙な追いかけっこは、どれだけの時間続いたのだろう
か。ふと気がつけば、クレハは今まで訪れたことのない白い街の外れまで導か
れていた。
そこが街外れ故なのか、石畳も、建物の壁もどこかくすんでいる。この一角
だけ、残酷な時の流れに晒され続けたかのように朽ちつつある。
「だれかいませんか?」
急に心細くなったクレハは、口元に手を当てて呼びかけてみる。もとより
『見えざる住人』には自分たちの声は届かない。
ナチュラルさんの話と、何度かの実体験によってそのことは確かめられてい
る。
けれどもそうせざるを得なかったのは、このあたりにまったく気配というも
のが存在しないからだ。
虚無の支配する領域、いつも館の中にこもって本を読んでいるヒビキであれ
ばここをそう名付けるだろう。
「ウサギ君やーい?」
呼びかけてみても、クレハをここまで導いたウサギは影も形もない。白い町
並みの中でやけにウサギの黒い影は、やけにくっきりと石畳の上に写っていた
のだが。
クレハは真っ青な空に手をかざしてみた。真っ青な空に太陽がぽっかりと浮
かんでいる。その光を受けて、白い手が――
クレハが自分の見たものを認識する前に、彼女の立つ地面が崩れ去った。
――ああ、白い石畳の下の土はこんなにも黒いのだな
そんなのんきなことを考えながら、彼女はどこまでもどこまでも落ち続けて
いった。
にほんブログ村PR
- 2009/07/03(金) 23:04:36|
- 指輪島物語|
-
トラックバック: |
-
コメント:0