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- 2024/12/28(土) 15:58:12|
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星をとる人に出会ったことがある。
わたしがまだ学生で、二十歳を過ぎて初めて学校をさぼり、初めて一人で旅に出たときのことだ。
その人は、世界でも数少なくなってしまった機械に頼らない星取りだった。
わたしがいままでであった誰にも似ていないその人と出会ったのは、蜜柑の香りでいっぱいの列車の中だった。
大きなはずの列車が窮屈に感じられるほど、乗客がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。
本来なら二人がけの席に、無理矢理に三人、四人も詰め込まれている。
わたしは、カラメル色の革の大きなトランクを椅子代わりにして何とか身を休めていた。
夜通し北に向かって走る列車の中では、誰もが無口だ。
もし誰かが咳(しわぶき)のひとつでもしたら、客をぎゅうぎゅうに詰め込んだ列車は爆発してしまうのではないだろうか。
わたしは自分の子供じみた想像に小さく笑った。
そしてわたしは吃驚しちまった!
わたしの小さな笑いが、蜜柑の匂いでいっぱいの空気を振るわせる。それとほとんど同時に、列車が軋みをあげて急停車したのだ。
乗客達はほんの少しの間だけざわついて、そして黙り込んだ。
重箱の黒豆のように固まって動かない乗客達の中で、一人だけ立ち上がった人があった。
「星待ち丘……星待ち丘……当列車は水の補給のため三十分間の停車をいたします」
すでに午前二時をまわっているせいか車掌の声も元気がなさそうだ。
立ち上がったその人は、ずいぶん暑そうな格好だった。貧乏学生のわたしから見ても、みすぼらしい格好でもあった。ボロ布を何重にも巻き付けたような奇怪な服だった。
その人は、ふと振り返った。その人の後ろ姿をしげしげと眺めていたわたしと、その人の視線が真正面からぶつかってしまった。
しかし次の瞬間にはふいと視線を逸らして、その人は列車から降りてしまった。
わたしはなぜか少しあわてて、座席に座ったままの乗客達にトランクをぶつけては頭を下げながら、その人に続いて列車を降りた。
十分間停車するというのなら、何かあるのかも知れない。
列車に乗っている間中、蜜柑の匂いに包まれていたせいでみかん水が飲みたくて仕方なくなってしまったのだ。
瞬間的に耳が凍ってしまうかと思った。列車から駅のホームへと足を一歩踏み出した途端、吐く息は白く、カマイタチが潜んでいそうな鋭く冷たい風が身体から熱を奪っていく。
羽織っていたコートのボタンをすべて留めて、襟を立ててもまだ震えは止まらない。
みかん水が欲しかったけれど、いまは熱い番茶のひとつでも欲しい。
小刻みに足踏みしながら、辺りを見回してみると其処は駅とも呼べないような場所だった。
列車に水を補給する為なのだろうか、三メートルほどの台の上に大きなタンクが据え付けられている。
そのタンクと列車は、消防隊が使うような太いホースで連結されている。
あるものといえば、それだけで、改札すらもないようだった。
そのときに初めて気付いたのだけれど、この駅には、照明すらないようだ。
夜空を見上げてみれば、満天の星。街の夜空では、一人威張っている月が、今夜はやけに恐縮したように空の端にいる。
なにもない、ひたすら寒いだけの駅。あの人は、なぜこのようなところで降りたのだろう。
「アルメニアの空みたいだ……か」
とは、私の兄が首都大停電のときの夜に空を見上げ呟いた言葉だ。
「アルメニアの虐殺を知っているかね」
いつの間にか、老人がわたしの後ろに立って空を見上げていた。
「いえ……」
去年、アルメニアの虐殺を世に訴えたジャーナリストが、トルコ極右の十七歳の少年に殺されたこともあって、わたしでさえそういった事実は知っていた。
「これからどこへ行くんだね?」
「ええと……星を見に」
とっさに出任せを言ってしまった。わたしの旅に目的地はなかった。列車に乗ってなるべく遠くに行って、帰ってくるだけ。観光ですらない。
「そうか。学生かね?」
空を見上げていた彼は、視線をわたしへと向けた。見たことのない瞳の色。もしかしたら、彼はアルメニア人なのかも知れない。
見上げるような長身に、マントかケープのように巻き付けられた布。彫りの深い顔はまるで、長い年月を経てきた岩のようだ。
「そのトランクの中身は観測道具かい」
「いえ、着替えや……身の回りの品です」
その人は、わたしの答えを聞くと夜明け色に煙った瞳を細めた。
「身の回りの品を持ってか。きみはまるで旅人だな」
「そういう……あなたはどうして旅を?」
その人にどう呼びかけていいのか、少し戸惑ってからその人は口を開いた。
「私達の旅は、ここでひとまず終わりだ」
その人は自分のことを『私達』と呼んだ。やはりこの人はどこか遠い国の人なのだろう。
『私達』氏は、ぼろ布のようなコートの隠しから、見事な銀時計を取り出してちらりと眺めた。
「列車がでるまでまだ時間があるな」
大気がまるで氷のようだ。息を吸うごとに冷気が喉の奥を通るのがわかる。
「アルメニアの星取を知っているかい?」
わたしに問いかけながらも『私達』氏は、ひょいとホームから背後に広がる丘へと降り立った。
「いえ……聞いたことがありません」
「そうか……私達は、アルメニアで、星取を生業としていた」
「星って。宝石のことですか」
何となく『私達』氏の後を追うような格好になって、わたしもホームから小さくジャンプをして荒野へと降りた。
トランクをひょいと背負って。
真っ白な部屋に、無数の淡い影が踊る。
なるべく濃い影を作り出さないように、たくさんの光源から投げかけられる光が、この部屋から現実感を損なわせる。
あの淡い影の踊りを見ていると、頭の芯がぼうっとしてきて、時間があっという間に過ぎてしまう。
「わからねぇなぁ」
センさんがなにもない天井を見上げて呟く。
「なんの話ですか?」
天井には、白い半透明の樹脂板が張り付けられている。9ミリパラペラムの弾丸なら防ぐことのできるくらいの強度があるらしい。
「女の話さ」
「あぁ、それは永遠の謎ですねぇ」
元々ぼくは、自分以外の人間の気持ちを理解しにくいという、器質的なハンデをもっている。
五歳の時にダンプカーにひかれ、その際に脳の感情を司る部分が傷ついてしまったのだそうだ。
ここは大量殺人者が収容される特殊施設だ。ひとつの国家でさばききれるものではなく、それで居てぼくたちをさばける権能を持った国際的な組織は存在しない。
モラトリアム的な収容なのだ。ぼくたちは、あくまでも普通の人間に収まる能力しか持たないけれども、それでも殺人者として大いに警戒されてこのような場所に閉じこめられている。
「女房からせっかく手紙が来たんだけどな……なんて書いてあるのかわからねぇんだよ」
「手紙?」
紙類は飲み込んで自殺する可能性があるために、ぼくたちの身の回りには置かれないものだと思いこんでいた。
そんな事情もあって、ぼくはすっかり驚いてしまった。他人の感情をはかれないぼくだが、自分の感情というのはちゃんとある。
「これなんだが、読んでくれないか?」
センさんは、桜色の便せんを懐から出すと、そっとぼくに差し出してきた。
恭しくそれを受け取ると、余計な折り目など付けぬように気をつけてそれをゆっくりと開く。
元々そういう紙なのか、それとも香水でも吹きつけたのか。
懐かしい桜の花の香りが仄かに広がる。
「――――ああ、これはぼくにも読めません」
人殺し以外知らない手なりに、なるべく丁寧に折りたたんだ便せんをセンさんに返す。
小さな嘘をついた。
ぼくには手紙に書かれた文章が読むことができた。いまのこの国の言葉だ。
かつての、本当のこの国の言葉はしようが固く禁じられている。センさんの奥さんは、どんな気持ちでかつて敵だった国の言葉で手紙を綴ったろうか。
人殺しとなることを決めたほんのわずかな時期のずれが、この言葉を解せるか否かをわけた。
ぼくたちの国が世界に挑み、敗れてから三年の月日が経った、春を目前に控えたある日のことだった。